東海
「ぼくが人生を砂防にささげよう」 赤木正雄(あかぎまさお)
立山連峰から富山平野へ流れくだる常願寺川。
この急流は、古くから洪水がいくども起こり、人々に大きな被害を与えてきました。 常願寺川という名前も、洪水がないことを「常に願う」という思いからつけられました。それほどこの川は、人々から恐れられていたのです。戦国時代には、武将の佐々成政がこの地を治め、洪水被害を少しでも 防ごうと佐々堤とよばれる石積みの堤防を築いています。 安政 5 年( 1858 )にこの一帯を飛越地震が襲いました。地震のあと、人々は山を見て驚きました。
立山連峰にあった大鳶岳・子鳶岳という二つの山が跡形もなく崩れさっていたからです。くずれた土砂は立山連峰から流れる常願寺川の流れを、途中でせき止めていました。そして地震の 2 週間後、常願寺川の水がたっていた土砂や木々を押し流し、一気に平野に押し寄せました。この土砂は、雨のたびに土石流を大量に押し流し、人々に大きな被害を与え続けてきました。
明治時代には、お雇い外国人のオランダ人 デ・レーケが土石流を防ぐための堤防をつくりましたが、危険はまだ残っていました。富山平野の土石流を防ぐことは、人々の大きな願いだったのです。
赤木正雄は、1887 年、兵庫県豊岡市に生まれました。 豊岡は水害の多い土地で、家々の軒先には避難のための船がつるしてあったといいます。赤木が第一高等学校の学生だったころ、 人生を決める人にであいます。
それが第一高等学校の校長であった新渡戸稲造です。
新渡戸は学生たちを前にして、「 我が国はたびたびの水害で多くの命を失っている。諸君のうちの一人でも一生を治水に捧げるものはいないか」と呼びかけたのです。この話を聞いた赤木は、「よし、ぼくが人生を治水のためにささげよう」と決意しました。
赤木は、東京帝国大学林学科に進学し植林について学びました。 大学を卒業すると内務省につとめます。 ここで赤木を待っていたのは、日本の荒れた山でした。江戸時代から日本各地の山は大量の木が切られ、はげ山のようになっていました。 木のなくなった山は、大雨がふると、水に土や岩の混じった土石流が流れ出します。
これが、まるで木を切った人に仕返しするかのように、やまのふもとに住む人たちをおびやかしていたのです。 赤木は、土石流の発生を食い止める、砂防とよばれる仕事にたずさわります。大学で学んだことをいかし、山に木を植えたり、土砂が流れ出す危険がたかいところでは土砂を食い止める、えん堤もつくりました。
しかし作ったばかりの砂防施設も、土石流を前にあっけなくこわされてしまいます。
そうした経験がなんどかつづくと、しだいに赤木は「日本の砂防はまだ遅れている。先進国で学びたい」という思いが強まっていきました。
赤木は、こつこつとお金をためてオーストラリアに留学しました。 そこで砂防の最新の技術を学ぶとともに、休みの日には、ヨーロッパ各地の砂防現場を見て回りました。そこにあったのは日本とは比較にならないほど大きな砂防施設や砂防ダムでした。ヨーロッパの現場を見て、「木を植えるだけでは土砂を止められない。日本の貧弱な施設では、土石流を止めることはできない」という思いでした。
帰国した赤木によって日本の砂防は変わりました。 赤木は、はげ山に木を植えるだけでなく、各地で本格的な砂防ダムなどの建設を提案し、その指揮をとることになったのです。その赤木を待っていたのは、富山県の立山でした。常願寺川の上流では、県により砂防工事が行われてました。
しかし、せっかく作った砂防施設も土石流によってあっけなく壊され、富山平野に住む人々は「もう土石流を止めることはできないかもしれない」と思い始めていたのです。県では、砂防の専門家として活躍している赤木に、立山カルデラから流れ落ちる土石流は、人の力で本当に防ぐことができるかどうか見てもらいたいと願ったのです。赤木はその願いを聞き入れ、立山にやってきました。
足は登山靴にゲートル、背中にリュックサックをかつぎ、ピッケルを持った赤木が、足取りも軽く立山に登りはじめました。赤木は、砂防が可能かどうかは、自分の足で山に登り、自分の目で見なければわからないと考えていたのです。山の上から立山カルデラを眺めた赤木は、カルデラ出口に大きな砂防ダムをつくれば、下流の被害は防げると考えました。そして自分がこの立山カルデラに挑戦しようと決意したのです。
立山砂防は、赤木が来てから大きく変わりました。
それまでは植林や石積みのえん堤で土石流を防ごうとしていました。しかし赤木は、海外の最新の技術をとりいれ、コンクリートを使った堅固な砂防ダムを建設しようと考えたのです。そのため材料や機械を運ぶトロッコ列車の線路が引かれ、大型の建設機械が現場に運ばれてきました。赤木は自分が設計した砂防ダムの工事が始まると、登山靴を履いて現場をかけまわり指導しました。
しかし 、 そんな工事中のさいちゅうにも 、 工事現場を土石流が襲います。ときにはコンクリートで固めたばかり砂防施設がこわされてしまったこともありました。 赤木が設計した高さ 63 メートルの白岩砂防えん堤が完成したのは、昭和 14 年。建設が始まってから 8 年後のことでした。その後、立山砂防事業はいまも続けられ、白岩砂防えん堤は何度も改修が行われています。赤木が挑んだ立山砂防は、いま世界最大の砂防事業といわれるまでになりました。ヨーロッパに学んだ赤木は、ヨーロッパを越える砂防をなしとげたのです。
<参考文献>
『地震・地すべり・大崩落 立山カルデラ物語』吉友嘉久子
(ダイナミックセラーズ出版)
『人物で知る 日本の国土史』緒方英樹(オーム社)
『国土を創った土木技術者たち』国土政策機構編(鹿島出版会)